私は世田谷区代田に住んでいる。
ここの所、武相国境道の産鉄地名を追っているが、そう言えば、我が地元は"代田"じゃないか。と、いうことで、GWの一瞬の隙きを突いてご近所explore, 世田谷区代田のダイダラボッチ伝説を追おうと思う。
ここの所、武相国境道の産鉄地名を追っているが、そう言えば、我が地元は"代田"じゃないか。と、いうことで、GWの一瞬の隙きを突いてご近所explore, 世田谷区代田のダイダラボッチ伝説を追おうと思う。
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ダイダラボッチの"ダイダラ"は、"タタラ(鑪)"から来ているという話がある。
あるいは、ダイダラボッチは一つ目、片足で、製鉄では火の温度が極めて重要で、三日三晩目を離してはならず、失明する者も多かったこと、火力を保つ為に風を送る鞴は片足で踏み付けて風を作るので足が悪くなる者も多かったことから、産鉄地ではダイダラボッチを祭っていたとも言われている。
このように、ダイダラボッチは産鉄と関係が深そうだが、一方で、巨人伝説としてのダイダラボッチもある。
産鉄と巨人がどう、繋がっているのか。
製鉄には大量の炭が必要で、山が禿山になるほどだと言い、その様が巨人による仕業だと言われたり、製鉄技術は秘儀だったから、周辺住民にしてみれば、山谷に籠もって、片目片足の人達が、何をしてるのかと思ったら鉄を作り出していて、何とも不思議というか、神秘的というか、そういったことが、架空の存在である巨人と結びついたのか。
いずれにせよ、産鉄と巨人は明確な結び付きの論が無いようだ。
いずれにせよ、産鉄と巨人は明確な結び付きの論が無いようだ。
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世田谷区代田の地名の由来はダイダラボッチから来ているらしく、ダイダラボッチの足跡があるとのことだ。つまり、巨人伝説の方だ。
代田の古地図、明治初期 |
この古地図は明治13年頃のものだが、画面上、東西方向にジグザグに流れているのが玉川上水、一部それに沿って画面右上に伸びる一際太い道が甲州道中、画面やや左、南北方向に伸びる道はほぼ今の環七で鎌倉街道中道支道、その右にやや大きな文字で、縦に、"代田村"の文字が見えるが、ちょうど、"田"の文字がある場所、そこが、川が削った窪地で、ここが足跡らしい。
早速行ってみた。
ダイダラボッチの足跡 |
写真は谷頭から下流向きを眺めたもの。川跡らしい絶妙な蛇行と、川沿いに並ぶ家々の土台の高さは、ここが、間違い無く川であったことと、その川の谷の深さを感じさせる。
守谷小学校崖上から崖下向き |
この写真は守谷小学校南の崖上から川跡と、その向こうの尾根を眺めたもの。崖の高さが、谷の深さが分かる。
この辺り、嘗ては池があったようだ。江戸時代の古地図、目黒筋御場から。
画面ほぼ中央のオタマジャクシがそれ。下北沢で森厳寺川に合流後、北沢川に合流 |
川はやがて京王井の頭線を抜けるが、そこでもう答えが出てしまった。
赤かった |
こちらは支流 |
一枚目はこの川、二枚目は支流。オレンジ色の水酸化鉄が確認できた。ここで鉄が採れるのである。巨人伝説と産鉄とが繋がった瞬間だった。
北沢川を下り、目黒川に行った。目黒川は何度も来ているが、そういう目で見たことが無かったので、今日初めて気づいたが、そこかしこに水酸化鉄が認められた。目黒川水系は、鶴見川水系同様、産鉄エリアだったのだ。
そういえば代田村の西隣は"赤"堤村。"赤"は酸化鉄の赤、あるいは風化した花崗岩に含まれる鉄の色。目"黒"の"黒"もクロガネから来ているのかもしれない。
目黒川の蛇崩川合流部 |
北沢川を下り、目黒川に行った。目黒川は何度も来ているが、そういう目で見たことが無かったので、今日初めて気づいたが、そこかしこに水酸化鉄が認められた。目黒川水系は、鶴見川水系同様、産鉄エリアだったのだ。
そういえば代田村の西隣は"赤"堤村。"赤"は酸化鉄の赤、あるいは風化した花崗岩に含まれる鉄の色。目"黒"の"黒"もクロガネから来ているのかもしれない。
追記:
まさか、代田に石棒なんて無いよね?
と、調べてみたら、まさか、まさか、代田八幡にあるようだ。今度、見せてもらおう。
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