武相国境道シリーズ
第一弾は草戸峠から町田駅まで。第二弾は武蔵国の南多摩郡と都筑郡の郡境尾根道(西側)に沿って展開する産鉄地名、第三弾は鎌倉街道沿いの産鉄地名、第四弾は鶴見川水系に沿って展開する産鉄地名を巡りました。
第五弾は横浜市南区別所の産鉄地名を巡り、第六弾はいたち川沿いの産鉄地名を巡りました。そして、第七弾は東光寺や白山神社などが嘗てあった舞岡をexplorerし、前回、第八弾は瀬上市民の森、金沢市民の森、横浜自然観察の森と公園に連なる尾根道をトレッキングで巡りました。
今回第九弾ですが、その名も"金沢", "釜利谷"の、その名もその名も"白山道"をエクスプローラーしたいと思います。
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さて、金沢の釜利谷にある白山道です。東光寺まであって、揃い踏みですね。
まずは金沢ですが、金沢は、畠山重忠の領地でした。その前から畠山重忠の領地だった秩父にも金沢という地があり、秩父金沢は産鉄地で、今でも、"たたらの里"と言われています。
畠山重忠は、横浜金沢を領地とした時、ここも産鉄地と知り、秩父金沢からたたら師を連れてきて、それが横浜金沢の地名の由来であるとも言われています。
次に、釜利谷ですが、カナクソが発見されていて、たたらがあったと言われています。
更に、金沢には片吹という地名もありますね。この連載でも何度か出てきていますが、"吹き"は産鉄地名です。炉内や鍛冶の火床へ風を送り込むことから来ています。
最後に、白山道ですが、これは、"しらやまみち"と読みますが、白山道にある白山妙理大権現から来ているものと思われます。この白山妙理大権現ですが、別当寺は嘗てこの地にあった白山寺で、称名寺の末であることから、創建時期は、称名寺が開山された1258年以降に創建されか、あるいは、元々あったものを末として組み入れたかのどちらかとなります。
"はくさん"とは言わず"しらやま"と言っていることから、シラ信仰から来ているかもしれず、実際、祠には自然石も祀られているとのことですから、そうなら、やはり、坂上田村麻呂による奥州征伐によって連れてこられた東北の奴隷たちが持ってきた神様でしょうか。時期としては8世紀末から9世紀初頭です。
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今回も非常に興味深い、良いエクスプローラーになりました。では、レポートです。
最後に、白山道ですが、これは、"しらやまみち"と読みますが、白山道にある白山妙理大権現から来ているものと思われます。この白山妙理大権現ですが、別当寺は嘗てこの地にあった白山寺で、称名寺の末であることから、創建時期は、称名寺が開山された1258年以降に創建されか、あるいは、元々あったものを末として組み入れたかのどちらかとなります。
"はくさん"とは言わず"しらやま"と言っていることから、シラ信仰から来ているかもしれず、実際、祠には自然石も祀られているとのことですから、そうなら、やはり、坂上田村麻呂による奥州征伐によって連れてこられた東北の奴隷たちが持ってきた神様でしょうか。時期としては8世紀末から9世紀初頭です。
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今回も非常に興味深い、良いエクスプローラーになりました。では、レポートです。
京急蒲田から輪行で金沢文庫まで。まずは称名寺を目指します。
毛越寺みたいで非常にきれいですね。
本日のルート、白山道は、1305年に金沢貞顕が瀬戸橋を竣工させるまで、鎌倉と鎌倉幕府公式港である六浦を結ぶ主要ルートでした。
朝比奈切通しは1241年に工事開始し、1250年には補修工事をしていますから、朝比奈切通し開通後、約50年程、白山道が鎌倉と六浦を結ぶ主要ルートだったということになります。
その頃から、鎌倉幕府で重役を務めた北条実時が金沢に居館を持ちましたが、鎌倉とその居館とを行き来するルートにもなりました。その居館内に建てた持仏堂が称名寺の元と言われています。
称名寺、伝1258開山 |
毛越寺みたいで非常にきれいですね。
本日のルート、白山道は、1305年に金沢貞顕が瀬戸橋を竣工させるまで、鎌倉と鎌倉幕府公式港である六浦を結ぶ主要ルートでした。
朝比奈切通しは1241年に工事開始し、1250年には補修工事をしていますから、朝比奈切通し開通後、約50年程、白山道が鎌倉と六浦を結ぶ主要ルートだったということになります。
その頃から、鎌倉幕府で重役を務めた北条実時が金沢に居館を持ちましたが、鎌倉とその居館とを行き来するルートにもなりました。その居館内に建てた持仏堂が称名寺の元と言われています。
そのルートを今日は称名寺から逆に辿ります。
称名寺の次は谷津浅間神社です。
ここは色々と見所がありました。まずはこれ。
浅間神社の南に真っ直ぐに伸びるこの尾根は、嘗ては、浅間神社がある尾根続きだったと思われます。だとするとここは切り通したわけで、結構な高さがあるから、さぞ、大工事だったに違いありません。
これ、切り通してますし、道の真ん中に進行を妨げる目的の大石が配置されてます。
で、この道、朝比奈切通しからの道に繋がるんです。なので、朝比奈切通しのルート上の、朝比奈切通しに続く二重のゲートウェイではなかったかと思われます。
称名寺の次は谷津浅間神社です。
1017-1020年、藤原道長がこの地に来た時、能見堂より正面の入江の上に見える松の森を、塗桶の形に似ているので塗桶山と名づけ浅間大神を勧請した。 |
ここは色々と見所がありました。まずはこれ。
浅間神社から南の眺望 |
浅間神社の南に真っ直ぐに伸びるこの尾根は、嘗ては、浅間神社がある尾根続きだったと思われます。だとするとここは切り通したわけで、結構な高さがあるから、さぞ、大工事だったに違いありません。
が、この切通、明治13年頃には既にあった。ナント!!! 最近切り通したのではないのです。
じゃあいつ切り通したんでしょうか???
明治13年古地図、精度の問題でズレているがお分かりかと思う。この地図を見ても分かるが、尾根続きだった。 |
それともう1つ、これは地形図なんですが、
地形図 |
全体的に青っぽいと思いますが、そうなんです、ご想像の通り、嘗てはここは入江だったそうなんです。そうなると、これは入江に突き出た岬、そういうことになります。上の岬の写真の両側(右側が分かりづらいですが)は海だったんです。
と、いうことでこれは岬の右側ですが、この写真も、遠くに見える尾根の手前は全て海だったなんて。
嘗ては海 |
もう1つの見所はこれです。
左に丸石 |
これは拝殿手前左脇の祠ですが、丸石が祀られていました。この地で丸石だと、アラハバキでしょうか。
先に行きます。
正法院です。
この正法院ですが、山号を赤井山と言います。赤い水が出たから赤井なんです。つまり鉄分の多い鉱泉ですね。実際、もう潰れてしまったようですが、近所に赤井温泉があったそうです。
徐々に徐々に鉄分が濃くなってきましたね。
7・11の交差点を左折し、釜利谷の交差点を過ぎ、宮川沿いに進みます。途中、寄りませんでしたが、自性院があり、ここも、産鉄に絡む伝説があります。
やがて東光寺につきます。
東光寺は、元々鎌倉の薬師ヶ谷、今の鎌倉宮辺りで、畠山重忠の開基により、1282年に開山したお寺です。応仁年間(1467~69)にこの地に移ったと伝えられています。
何故、この地に移動したのか。
正法院です。
山号は赤井山 |
この正法院ですが、山号を赤井山と言います。赤い水が出たから赤井なんです。つまり鉄分の多い鉱泉ですね。実際、もう潰れてしまったようですが、近所に赤井温泉があったそうです。
徐々に徐々に鉄分が濃くなってきましたね。
7・11の交差点を左折し、釜利谷の交差点を過ぎ、宮川沿いに進みます。途中、寄りませんでしたが、自性院があり、ここも、産鉄に絡む伝説があります。
やがて東光寺につきます。
東光寺、日曜日の座禅会をやっているようで、元気な子供たちの笑い声が響いてました。 |
東光寺は、元々鎌倉の薬師ヶ谷、今の鎌倉宮辺りで、畠山重忠の開基により、1282年に開山したお寺です。応仁年間(1467~69)にこの地に移ったと伝えられています。
何故、この地に移動したのか。
ここへは道路から階段を上がってアプローチするんですが、何と言いますが、背筋がゾクッとするような、かと言って恐怖心ではないんですが、緊張感と言いますか、そういう空気感でした。
谷津浅間神社と同じですね。真中のものは、上に石が乗っている分、公田のアラハバキにソックリです。
やはり、ここ金沢、釜利谷は、東北産鉄奴隷達が移住させられた所だったのだと思います。
同じ東北人として、またもや、何とも切ない気持ちになりました。
ふと宮川に目をやるとこれでした。オレンジ、水酸化鉄です。
更にその先、どんづまりには宮川の水源となる池があるんですが、その左手に尾根道の入口があります。ここから、上の白山道奥公園までの状況をどうぞ。
切り通し1 |
切り通し2, 道の真ん中に大石 |
切り通し3 |
これ、切り通してますし、道の真ん中に進行を妨げる目的の大石が配置されてます。
で、この道、朝比奈切通しからの道に繋がるんです。なので、朝比奈切通しのルート上の、朝比奈切通しに続く二重のゲートウェイではなかったかと思われます。
白山道古道 |
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今回も鉄分多めなexplorerでした。いやぁ、本当に、武相国境は鉄の道ですね。次回は武相国境シリーズ最終回の予定です。
以上です。
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