2019年6月2日日曜日

東山道武蔵路、武蔵国の古代官道

前回で、771年以降、延喜式前の武蔵国の古代東海道の、武蔵国府〜乗潴駅〜豊島駅ルートを完了しました。

今回は、771年に、武蔵国が東海道に付け替えされる前の、武蔵国がまだ東山道所属だった時の、東山道本道から武蔵国府への連絡路である、東山道武蔵路をExplorerします。

東山道武蔵路は、入間川までは、発掘が非常に良くなされていて、発掘された道路遺構を直線で繋ぐと、1300年以上前に使われていた東山道武蔵路が現れます。

現れた1300年前の東山道武蔵路は、武蔵国府と上野国新田駅・下野国足利駅とを単純に直線で結んだルートとほぼ重なり、古代官道が、当時、本当に、山や川、湿地等々、上り下りも何するものぞとばかりに、最短距離となる直線で繋ぎ合わせていたことに驚くばかりです。

府中からほぼ真北に伸びている黒線です。是非、大きくしてご確認ください。
オレンジのマーカが史跡で、東山道武蔵道の道路遺構も多く含まれています。


今回は、既述のように、比較的、確定的とされている入間川以南を南下するルートで行きたいと思います。

見所は、事前机上Explorerによると、

  • 堀兼の掘割道
  • 堀兼神社、堀兼井、野々宮神社、七曲井
  • 現道に残る東山道武蔵路
  • 東の上遺跡
  • 八国山
  • 武蔵国分寺

の、ようです。

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久々の輪行で新狭山まで。しかしこの駅は完全にホンダの為の駅ですね。それを思うと、今回のブレグジットに伴う、ホンダ工場のイギリスからの撤退は、地元にとっては厳しいんでしょうね。が、それが、資本主義、グローバリズムです。

新狭山駅から、ホンダ狭山工場で東山道武蔵路が途切れた地点に向かい、ここからスタートです。

この道が現道に残る東山道武蔵路。正面がホンダ狭山工場、途切れてます。ここから南下します。

畑の中の長閑な道を行きます。ホンダ狭山工場から先(南)は、東山道武蔵路が、ほぼ、現道に残っています。地図をご確認ください。真っすぐでしょ。

道はやがて堀兼中の所で畑に阻まれます。右折し、現道(これも迅速測図に載る古道)に迂回し回り込み、直線上の森の中の推定地点に果敢に挑みました!!!

下のオレンジマーカが、直線上の推定地点

すると出てきたのがこの掘割道でした。いやぁ、面白いですね。時空を超えたExploreの醍醐味です。

堀兼の掘割道。位置的、方向的にも、ぴったしなんですが。。。

が、道自体は素敵なんですが、如何せん、幅が狭過ぎますね。後で何度か出てきますが、古代官道のwide&straight度合いは、こんなもんじゃありませんから。

堀兼の掘割道を過ぎ、アスファルトの道に復帰しますが、信号を過ぎた先はこの直線でした。

先の先まで見通せます。

不老川を越え、堀兼神社、堀兼井に到着です。

堀兼神社。創建年は不詳ながら、堀兼井に関連していると思われ、その堀兼井は、平安末期には既に知られていたことから、創建は平安時代以前とも言われています。社記では、日本武尊東征の折、立ち寄ったとの伝承もあります。
堀兼井

堀兼神社と堀兼井、そのペアと似たペアが、ほぼ真西の鎌倉街道上道沿いにもあります。

野々宮神社、狭山市サイトによると、この野々宮神社の社家の伝承によれば、奈良時代の創立とのことです。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣した際、この野々宮神社社家は、神武天皇御東征に従軍したそうです。そんな歴史ある社家ですが、いつの頃かこの地に下り、奈良時代には、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し、つまり野々宮神社を創建し、入間路の警備と七曲井を管理したとのことです。
七曲井

非常に興味深いですね。一方は東山道武蔵路に、堀兼井を守る為の堀兼神社が。もう一方は鎌倉街道上道に七曲井を守る為に七曲井があるんです。

この井戸に関しては、詳しくはwikiをどうぞ。

さて、堀兼神社に戻り、続きを行きます。堀兼神社を過ぎたら直ぐ、2本の道が並行している所に出ます。この2本の道の間が、東山道武蔵路そのものになります。

マーカの所

GEでも見てみましょう。

マーカは同じ位置です。西側の狭い方の道は分かりづらいですが、黒線がある広い方の道の直ぐ西側が帯状になってますね。これが、東山道武蔵路そのものだということです。

正面に立ち、パノラマで撮ってみました。

左手に見える道と右手の森とトタンの壁との間の道、その間の森、これが東山道武蔵路です。
途中の風景、これは狭い方の現道ですから、チャリを置いてある左手の森が東山道武蔵路です。

ネオポリス西の交差点で、この時空散歩区間は終わってしまいますが、GEでその後も追ってみると、いやいや、所々、痕跡が残っています。探してみてください。

さて、道は、鎌倉街道上道に合流します。現道に残っている部分はこれで終わります。

鎌倉街道上道との分岐、右が東山道武蔵路

ここから先は、現道に残ってません。なので、鎌倉街道上道を行きながら、都度、見所に寄ることにしましょう。まずは東の上遺跡に向かいます。

東の上遺跡は南陵中で見つかりました。当然、今は残ってません。なので、

所沢市サイトより拝借。発掘当時の東の上遺跡の東山道武蔵路。正面に八国山が見えます。

この写真だと本当に良く分かりますが、東山道武蔵路は、このまま真っ直ぐ、八国山に向かってたんです。

八国山と東山道武蔵路

まずは悲田処跡と見られる悲田処公園です。詳しくはやはりwikiで。

山に登り道路跡が確認できないか、チェックです。まずは北側。

6月ですから藪で殆ど見えませんが、画面左、なんとなく、掘割の側面壁のようになっているように思えます。
南側は住宅になっていて近付くことすらできません。画面真ん中の森の木々がへっこんでる辺りが該当地点です。

八国山をやり過ごしたら、一路、武蔵国分寺に向かいます。写真集のようになってしまいますが、以下、ご覧ください。とても、良い所でした。

姿見の池
姿見の池の東山道武蔵路跡
国分寺薬師堂
国分寺別院
お鷹の道で、国分寺崖線の湧水で冷やされる大根とその農家
国分寺跡
国分尼寺跡

その中でもやっぱりハイライトはこれでしょう。東山道武蔵路跡です。

このwide&straightさ。堀兼の掘割道と比べると、あっちは、古道ではあるものの、古代官道ではないことが分かりますね。
現地に合った説明版から。分かり易いので。

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如何でしたでしょうか。

1300年前の道が現道に残っているというのは、本当に興味深いことです。お勧めです。

2019年5月27日月曜日

ふじ大山道ルート(異説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道

前回前々回と、771年以降、且つ、延喜式前の、武蔵国の古代東海道の、定説と異説ルートをご紹介しましたが。

実走してみてつくづく思ったのが、渡河に伴うup & downです。整地された今でも厄介ですし、哲学堂公園の辺りを見ると、哲学堂公園の妙正寺川だけでなく、他の川も恐らく往時は崖だったのではないか、と、思うのです。

哲学堂公園内、妙正寺川の河岸段丘の崖

定説ルートは古寺社も多く、極めつけは天沼熊野神社の伝承ですが、

天沼熊野神社、すっきりとした佇まいでした。風格があるというか。

その点では良いのですが、でも、やはり、渡河に伴うup & downが気になるのです。

再掲、陰影図・全体。武蔵野台地は、神田川と、その支流である、善福寺川、桃園川、妙正寺川、そして石神井川といった5つもの川が東西方向に流れ、南北方向に行くには、それらを渡らなければならない。

この渡河を回避するルートは無いものか、と、陰影図を見てみれば、あるじゃないですか。

陰影図、全体

上の2つのルートを見てください。武蔵国府国庁を出発し、人見街道を行かずそのまま直進北上です。国分寺崖線は、定説・異説ルート同様、上らざるを得ませんが、その後、渡河するのは仙川。仙川を過ぎて直ぐに東進し、仙川と石神井川、石神井川と善福寺川・妙正寺川の間の尾根を行き、定説ルートと異説ルートの合流後の哲学堂公園の少し北のV字に至るのが、千川上水ルートです。

仙川渡河後、直ぐに東進せず、更に石神井川を渡河後に東進するのがふじ大山道ルートです。

どちらも見事なまでの直線です。古代東海道の跡なのではないか、と、思わせます。

が、千川上水ルートの場合、前々回の記事でも言いましたが、道が先にあったとは考えられず、と、なると、近代の道ということになります。

(でも実に惜しいですね。千川上水ルートの場合、仙川と石神井川を渡河するだけなんですね。しかも、石神井川の方は実走であまり高低差がありませんでした。仙川の方も、陰影図ではあまり高低差が無いようです。つまり、最も、up & downが少ないようなんです。)

一方、ふじ大山道の方ですが、大いに可能性があると思っています。

ただ、仙川と石神井川を渡り、もう一度、下頭橋で石神井川を渡り、更にもう一度、石神井川を渡ります。最後の石神井川は、千川上水ルートと同じなので高低差はあまりありません。が、最初の石神井川と下頭橋での石神井川渡河は、陰影図ではソコソコ高低差がありそうです。

また、古寺社も少ないですね。

そもそもこのふじ大山道ルートは、その名の通り、大山、そしてその後方の富士山への参詣道であり、と、なると、大山信仰が盛んになった近代に出来た道ということになります。

が、果たしてそうでしょうか。下図を見て下さい。

陰影図、豊島氏居城とふじ大山道ルートとの位置関係

平安期から豊島郡を根拠地とし、豊島駅エリアにある平塚城と、練馬城、石神井城を居城とした豊島氏がありますが、この3つの城を単純に直線で結んだ青線と赤線のふじ大山道ルートとを比較して下さい。ほぼ重なります。画面右上はやや離れていますが、地形を見るとその理由が分かります。石神井川を避けてるんですね。

つまり、ふじ大山道ルートは、豊島氏の居城間を結ぶ道であり、そうなると平安期には成立していた可能性もあり、と、なると、それ以前から道があった可能性があります。

ふじ大山道は、近代に成立した、富士山、大山参詣の為の道ではなく、平安期から既にあった道かもしれません。その道が、府中に向かっているとなると、古代東海道の可能性も出てきたのではないでしょうか。

それともう1つ。浅間山なんです。

定説ルートの牟礼山と同じく、浅間山が測量上のランドマークになっていたのではないか、そう思わせます。なので、定説ルートと同じくらい、ふじ大山道ルートも、官道の可能性があるのかもしれないと思った次第です。

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と、言うことで、実走したいと思います。

下高井戸ルートを逆走して浅間山公園に到着です。今回はここが起点。早速、浅間山に登山です。

ちょっと、住宅によって頭しか出てないので分かりづらいですが、新小金井街道の旧道から望む浅間山です。
堂山山頂の浅間神社
女坂より山頂を望む

ムサシノキスゲは終わってたようですが、新緑が実に美しく癒やされました。

で、ランドマークかどうかについてですが、上の写真のように、住宅が立ち並ぶ現代では想像力が重要になって来ざるを得ませんが、充分にあり得たと思います。

浅間山の後は国分寺崖線を上がり、仙川を渡河します。

あまりに高低差が無く通り過ぎてしまい振り返っての一枚。こうして見ると少し下って上がってます。

ご覧の通り、高低差は殆ど感じられません。定説、異説ルート時に神田川水系を渡河した時とは大違いです。

続けて石神井川を渡河しますが、こちらも高低差を殆ど感じることは出来ません。

こちらも殆ど高低差無し。

と、いうことで、実走してみると、このふじ大山道ルート、この最初の2川の渡河はネガティブではないことが分かりました。

小金井公園の先で東に折れ、田無をやり過ごすと、見事なまでの直線です。この直線が、私的にこのルートを推す、最大の理由です。

振り返っての一枚、直線なので先の先まで見えます。

道は程無く、石神井城に到着します。

石神井城、全景。正面のこんもりした森が城跡です。
空堀と土塁
氷川神社、豊島氏が城内に勧請しました。

さぁ、ここからふじ大山道は、石神井城と練馬城とを結ぶルートとなります。up&downも殆ど無い、気持ちの良い直線を行きます。

あっという間に練馬城に着きました。あまりに快適で、また、行き過ぎてしまいました。

向山庭園、練馬城の濠跡と言われている。

としまえんが練馬城の跡になるんですが、そのとしまえんも今は閉園で中には入れません。入れたとしても、残念ながら、殆ど遺構がありません。唯一、現存してるのが、この向山庭園のようです。

練馬城は、北を石神井川、東西を石神井川の支流で囲まれた天然の要害で、向山庭園の中央には、東側の支流、つまり天然の濠が南北に流れています。

陰影図、練馬城
練馬城東の谷を西から撮った写真。右手の緑が向山庭園です。真ん中に窪みがありますがこれが東の谷。結構な深さがあります。この谷が向山庭園まで続いていて今は池になってますが、だから、それは練馬城の濠跡と推定されています。

ふじ大山道ルートに復帰し、石神井川の渡河の為、下頭橋を目指します。この間も直線でup&down無いのであっという間。

石神井川渡河、高低差無し

ここも高低差は殆どありませんでした。


この先は過去のルートと重なるので割愛し、帰路に付きました。

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と、言うことで、実走してみたら、渡河によるup&downは懸念ではなく、直線性は見事で、浅間山はランドマークたり得たという結果となり、充分、古代東海道の可能性があるのではないかと思いました。

定説、異説1, 異説2と、今回、3ルートを行ったわけですが、このルートが最も合理的に思いますが、如何でしょうか。

次回は延喜式か、東山道武蔵路を行こうと思います。

2019年5月19日日曜日

下高井戸ルート(異説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道 + 古寺社集中縦のライン

前回は定説ルートを行きました。今回は、異説ルートを行きます。

まずここ、三鷹一小なんですが、定説ルートではここを左に行きましたが、異説ルートではここを直進します。

見てください、見事な直線ですよね。見れば見る程、来れば来るほど、何故、ここで左折しなければならなかったのかが分からなくなります。

三鷹一小から東を望む

ここから先、古寺社は無く、チャリを止める理由も無くただひたすらに進み、下高井戸で左折、このルート初めての渡河、神田川です。

神田川

勿論、下高井戸からここまでは下りで、神田川を渡った後は永福に向かって上りなんですが、現在の道ではなだらかでさほど苦ではありません。でも往時はどうだったんでしょうか。

永福稲荷神社を過ぎた辺りで台地に上がり切ります。ここからは神田川左岸の台地を安定的に進んでいきます。

永福の駅を過ぎて程無く、龍光寺参道があり龍光寺に向かいます。

龍光寺は、1172年開山とされています。宝仙寺末でした。宝仙寺は義家が開山に関わっていますから、ここ龍光寺も源頼義義家親子による前九年の役、後三年の役伝承に絡む寺と言っても良いかもしれません。

道は大宮八幡宮の参道入口に行き着き、善福寺川に向かって下っていきます。ここが結構な勾配。往時はすごかったんだろうと想像できます。善福寺川を渡った後、再び台地に上がっていくんですが、その縁にある堀ノ内熊野神社からの眺望がこれです。

ちょっと分かりづらいですが、高低差があることはお分かりいただけるかと思います。目の前のマンションの3階より上ですね。

堀ノ内熊野神社からの眺望

台地に上がったら、道は再び、今度は善福寺川左岸を安定的に進んでいきます。ここは、うっすらと上りが続き、途中、善福寺川の支流を渡河するんですが、実に安定的です。

鍋屋横丁まで上り切ったら、紅葉山公園に向かうんですが、このルートは、定説ルートと違い、桃園川を渡河しなければならないんですね。上り下り多い。古寺社が少ないのと、この、渡河が多いというのが、このルートを定説に引き上げられないポイントなんです。

桃園川跡、しかも結構な勾配なんです。

桃園川に向かって下り、桃園川を渡って紅葉山公園の上りをこなし、実は再び桃園川の支流が作った谷に向かって下るんです。

今はただの道路ですがここは桃園川の支流でした。

道は、早稲田通りに向かって上り、やがて、新井薬師に辿り着きます。ここからは定説ルートと同じです。実はこの間、今度は妙正寺川の支流を渡河するんですが、気付きませんでした。暗渠化されてるのと、勾配の変化があまり無かったからだと思います。

と、言うことで、お見せする写真も大してない、そういうルートだったんですが、そのことに象徴されるように、古寺社が無いんですね。人が通っていた、あるいは集落の痕跡が薄い感じです。

その代わり、川の写真が多い。やはり、このルートは、神田川とその支流群の下流に近く、そうなるとそのまた支流も多くなる為です。

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ガっと下高井戸まで真っ直ぐに行って、ガっと西ヶ原まで行くこのルートの方が見栄えは良かったんですが、神田川とその支流群の下流域ということで、渡河する川が多く、アップダウンも多く、古寺社も少なくて、実走してみたら、???というルートでした。

一方、前回の定説ルートは、やはり、4川の渡河があり、階段状ではあるものの、異説ルートよりは3回少なくて済んでますし、古寺社も多く、有力に思いました。

武蔵国で、国府から豊島駅へのルートを考える時、この、東西方向に流れる神田川とその支流群の存在を無視できないぞ、と、思った次第です。

そう思って陰影図と古地図を見比べながら発見したのが、千川上水ルートと富士街道ルートですが、それらは後日としたいと思います。

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さて、写真的に面白みの無い記事となりましたので、縦のラインも行ってみました。以下にご紹介します。

こうして俯瞰すると一目瞭然ですが、まず延喜式古代東海道(青・赤線)沿いに古寺社が集中してますね。特に浅草。ここまで縮小するとマーカが重なってしまってますが、夥しい古寺社です。その他も、品川、豊島駅周辺など、古寺社集中エリアはあるんですが、杉並区天沼辺りも負けず劣らず集中しているのが分かります。

迅速測図、全体

ズームするとこうなります。

黄色はルート沿いで既に行ったところです。今回は青を行きました。

古寺社が沿った道が3本ありますが、阿佐ヶ谷八幡宮、あるいは源頼義・義家親子の前九年、後三年の役伝承がある宝仙寺旧地である世尊院で合流し、鷺宮八幡神社を経由し赤羽から奥州に向かう、所謂後の鎌倉街道です。

では南から、まずは大宮八幡宮です。

大宮八幡宮、1063年、源頼義凱旋の際、ですから前九年の役の復路ですね。岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれます。復路だけでなく、往路、この地に差し掛かった時、大空に白雲たなびき源氏の白旗の如くとし、奥州を平らげた後は必ずこの地に戻り八幡信を勧請するといった伝承もあります。更に、その子、義家も後三年の役の往復にこの地に寄ったという伝承があります。

撮影は午後夕方近くだったんですが、写真の通り、太陽をを背にしている、つまり、東向きなんですね。これは江戸時代、江戸城守護の為、南向きから変えさせられたとの伝承が残ります。

次は、白山神社です。

諸々、詳らかでないんですが、創建は、大宮八幡宮とほぼ同時期だろうとのことです。

その次は尾崎八幡神社です。

尾崎八幡神社、やはり、詳らかではないんですが、大宮八幡宮と同じ頃ではないかと言われています。

最後に、須賀神社です。

成宗須賀神社、941年に創建、1599年に再建されたと伝えられているといいます。

この4社は全て善福寺川沿いなんですね。川に面した崖上に位置しています。その視点で見ると、ルート沿いにあって、既に訪れた、荻窪八幡神社は善福寺川、天沼熊野神社は桃園川沿いですね。

大宮八幡宮はその典型ですが、縄文・弥生時代の祭祀遺跡が見つかっています。大宮八幡の正門は嘗て北門で、川 = 水を崇拝していた頃から、"天子南面す"の考え方が伝わる前からの聖地であり、何らかの集落があり、だから、頼義・義家親子もこの道を通ったと思われます。

八幡、白山、八幡、須賀と、祭神は異なるように見えますが、それは後の世の人が合祀したのであって、元は、川、あるいは崖地故の湧水を神格化したのではないでしょうか。