杉山峠は武田軍が小田原攻めの際、通ったのだが、杉山峠から先はどのようなルートだったか。
甲陽軍鑑では、
小山田、二つ田、木曽、勝坂、新道
と、記されている。
ニつ田というのはよく分からないが、これだと杉山峠からそのまま南下せずに、町田街道を東進し、木曽で南西に向かい勝坂に至る大回りルートとなる。
一方で、
橋本、上溝、原当麻、勝坂、新戸と行き、座間で一泊した。
という説もある。座間の辺りは氏照領なので、優雅に一泊というのは・・・と思われるが、何れにしても、この場合は杉山峠から南下するルートで、しかし、原当麻で相模川を渡河せずに、相模川左岸沿いに南下するルートだ。
やはり甲陽軍鑑によると、
武田軍は、先衆が当麻、ニノ手は磯部、信玄旗本は新道(新戸), 跡備は座間で相模川を渡河した。
とあるから、こうなると、全隊が南下ルートを採ったか、あるいは、先衆とニノ手は南下ルート、本隊と跡備えは東大回りと二手に別れたかのどちらかということになる。
2万もの大軍が一つのルートに殺到するとジャムってしまう。そこを背後から氏照に攻め込まれるのを警戒し、二手に別れたとするのがリーズナブルと思われる。
尚、更に、東大回りルートは、木曽から勝坂に向かうルートには、付かず離れずの2ルートがある。
今回はこの武田軍小田原攻めのルートをexplorerする。
青が御殿峠・高句麗渡来人移住ルート(私的推定), 黒が武田軍小田原攻め東大回りルート、オレンジがその別可能性ルート、青の御殿峠・高句麗渡来人移住ルート(私的推定)と途中枝分かれしている緑が武田軍小田原攻め南下ルート。
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まずは東大回りルートから行ってみよー!
スタートは橋本。ここまで輪行。
スタートは橋本。ここまで輪行。
町田街道は旧道が所々残っていて、周りの、『なんであの人わざわざあんな狭い道』って言う視線を、『分かってないなぁこいつら』と、逆に楽しんで風情を楽しむ。
こちらが嘗ての町田街道でここは木曽宿。今はひっそりとした住宅街だが風情は残っており往時はさぞ栄えたのだろうと想像させる。
ところで何故、"木曽"か。
あの木曽なのか。そう、あの木曽なのである。ここは木曽義仲が頼朝と和解する為に嫡男義高を人質に出す際、義高が一時、この地に逗留したという縁があったのだ。
矢部八幡はその時に創建というし、木曽観音堂の観音様も義仲が預かっていたもので、その縁でこの地に移され木曽観音堂となったということです。
いやぁ、知らなかった。
この木曽観音堂を右折すると直ぐに木曽一里塚。何の道の一里塚かと言うと、御尊櫃御成道だ。
やがて道は境川が作った谷へと落ちていく。堺川を渡ると龍像寺坂。相模原の大地に上がる。開発で途切れた区間をやり過ごし、待っていたのはこの風景。
道は途切れますが柵の向こうにもこの道筋。
ここから峰坂まで道は失われてます。それでも木曽に続き下溝や新戸の一里塚を経由したりして勝坂に入り、ここから怒涛の古社・古寺連発です。
と、この辺りはスゴイのだ。この辺りの字入谷が相模国古代東海道の夷参駅という説が有力なのも頷ける。
ところでこの古代東海道について、東海道に属していた相模と上総、下総と、東山道に属していた武蔵だが、この東海道相模の夷参駅から武蔵へ行くにはどうしていたか。
最初は古代東海道は海上ルートだから、
相模→上総→下総→武蔵
と、えらい遠回りで、768年の続日本紀によれば、下総→武蔵の詳細は、
河曲(本千葉)→浮嶋(幕張)→井上(市川)→豊嶋(北区滝野川or谷中)→乗ヌマ(杉並or馬込)→武蔵国府
だったそうである。
えらい遠回りだったので、771年の続日本紀によると、武蔵は東海道に所属替えしたならば、相模夷参駅からたった4駅で下総に達すると訴えられ、武蔵は東海道となったわけだが、この時の相模夷参駅から武蔵国府までの道筋が、今回のルートではないかともいわれている。(武蔵国府からはそれまでと逆に辿り下総井上駅に行く。)
武田軍小田原攻めに話を戻そう。座間から相模川を渡河したというから道は座間下宿から新田宿を経て相模川に至ったのだろうと思う。最後に、武田信玄も眺めた大山を。
と、いうことで、杉山峠終わりの橋本から東大回りルートを来たが、この道は、771~927年の古代東海道、相模国夷参駅から武蔵国府への道であり、武田軍小田原攻めの道であり、御尊櫃御成道でもあったわけでした。
旧道に入らないと絶対に出会えない札次神社。なんと創建は社伝によれば神武天皇即位のBC585年。又、第10代崇神天皇の御代(BC97~29)には、疫病が蔓延し鹿島神の神示を得て御幣物を鹿島の宮に奉納したという。そのことから少なくとも崇神天皇の御台には存在していたという、信じられないほど昔から存在すると言われている神社です。 |
こちらが嘗ての町田街道でここは木曽宿。今はひっそりとした住宅街だが風情は残っており往時はさぞ栄えたのだろうと想像させる。
秋葉神社前で撮影。単なる住宅街だが、土地の記憶のなせる業か、往時の面影を感じる。 |
やがて道は木曽観音堂へ |
ところで何故、"木曽"か。
あの木曽なのか。そう、あの木曽なのである。ここは木曽義仲が頼朝と和解する為に嫡男義高を人質に出す際、義高が一時、この地に逗留したという縁があったのだ。
矢部八幡はその時に創建というし、木曽観音堂の観音様も義仲が預かっていたもので、その縁でこの地に移され木曽観音堂となったということです。
いやぁ、知らなかった。
この木曽観音堂を右折すると直ぐに木曽一里塚。何の道の一里塚かと言うと、御尊櫃御成道だ。
ゴミ置き場になってるのが悲しいが |
そうじゃないのは分かってるんだけど、当時の風景そのものなんじゃないかと錯覚してしまうほどの風景。思わず、元のサイズ、ですみません。 |
道は途切れますが柵の向こうにもこの道筋。
これは明らかにそれ。これで、堀割ってくれてれば完璧。 |
まずは勝坂集落に鎮座まします延喜式内論社の1つ石盾尾神社。少なくとも927年にはここにあった(可能性)ということ。雰囲気抜群!!! |
有鹿神社奥宮、天智天皇3年(664年) 5月に、国家的な祭礼を行った記録アリ。ここも雰囲気抜群、スゴイ!!! |
御神体の湧水 |
座間神社、欽明天皇の御代(539~571)に創建 |
鈴鹿明神社、欽明天皇の御代に創祀せらるる |
星谷寺、行基(668~749年)開基 |
諏訪明神、ここも石盾尾神社の論社の1つ。また、鈴鹿明神と有鹿神社との争いの伝説にも登場するのでかなり古くから存在していたことを伺わせる。 |
と、この辺りはスゴイのだ。この辺りの字入谷が相模国古代東海道の夷参駅という説が有力なのも頷ける。
ところでこの古代東海道について、東海道に属していた相模と上総、下総と、東山道に属していた武蔵だが、この東海道相模の夷参駅から武蔵へ行くにはどうしていたか。
最初は古代東海道は海上ルートだから、
相模→上総→下総→武蔵
と、えらい遠回りで、768年の続日本紀によれば、下総→武蔵の詳細は、
河曲(本千葉)→浮嶋(幕張)→井上(市川)→豊嶋(北区滝野川or谷中)→乗ヌマ(杉並or馬込)→武蔵国府
だったそうである。
えらい遠回りだったので、771年の続日本紀によると、武蔵は東海道に所属替えしたならば、相模夷参駅からたった4駅で下総に達すると訴えられ、武蔵は東海道となったわけだが、この時の相模夷参駅から武蔵国府までの道筋が、今回のルートではないかともいわれている。(武蔵国府からはそれまでと逆に辿り下総井上駅に行く。)
武田軍小田原攻めに話を戻そう。座間から相模川を渡河したというから道は座間下宿から新田宿を経て相模川に至ったのだろうと思う。最後に、武田信玄も眺めた大山を。
武田軍もここを渡った |
と、いうことで、杉山峠終わりの橋本から東大回りルートを来たが、この道は、771~927年の古代東海道、相模国夷参駅から武蔵国府への道であり、武田軍小田原攻めの道であり、御尊櫃御成道でもあったわけでした。